なくしたものはいらないもの-やるだけやって手に入らないものもいらないもの
昨年末、なくしたものはいらないもの、という歌詞に出会いました。
チャコールフィルターのBrand-New Myselfという曲に出てきます。
(曲自体は2002年にリリースされたもので新しくはありません)
その言葉にものすごく納得しました。
▼昨年末に書いた記事
1月5日のできごと
5日金曜日はだんなの仕事が始まる日でした。
会社の雰囲気としては、そこを有給を使って休んで冬休みを長くしても良い感じとのこと。
5日には出社せねば!という感覚にとらわれているだんなに、休んでもいいんじゃないかと言いました。
5日当日、「言われたから休むことにしてあげた」という態度のだんながいました。
そして、図書館に行って集中して仕事をしてくると言って出かけました。
それも近所の図書館じゃなくて、車に乗って遠い方へ行きました。
「普通に仕事に行ってると思ってくれ」という言葉を残して。
昼ごはんも食べなくていいから夕方まで帰ってこないと。
決して怒ってそのような態度を取っているんじゃないのもわかります。
研修やら発表の予定があって余裕がなくなってるのはわかるけど…
性格も真面目すぎるからそれもあるんだけど…
冷たい! と受け取らざるをえません。
息子もかまってもらえなくて「お父さん嫌い」と言って見送りませんでした。
イライラを抱えたまま、息子と私のふたりで何をしようかと考えました。
電器屋さんに行きたい用事があったのですが、だんなは無駄に車にも乗って行ってしまったし。
とても自転車で行ける距離ではないので電器屋さんはあきらめました。
そこでまたイライラが高まった時、不意にこういう考えが浮かんできました。
だんなに外出してほしいという気持ちが私の中にあったからだんなは出て行ったんだ、と。
自分で認識している表層意識では「一緒に冬休みの1日を過ごしてほしい」と思っていましたが、深層意識では外出してほしかったんですね。
そこに気づいたら、私は自宅でやるべきことをたくさん抱えていることにも気づきました。
洗いたい洗濯物、片付けたい洗濯物がありました。
正月休みの間あちこち出かけていたので、家の中が片付いていませんでした。
これはひとりで集中して取り組みたいところ。
幸い、息子もしばらく見るヒマがなかったお気に入りのDVD を集中して見始めました。
ここまで来たらイライラはすっかり無く、やることをやれました。
手に入れられなかった「その日に家族一緒に過ごす」は、不要だったんだ!と納得です。
強引に手に入れると虚しくなる
もし仮に、無理を通して、息子がかわいそうとかなんだかんだを理由にして情に訴えてだんなを責めて引き止めていたらどうだったか。
だんなもストレスだし、引き止めた私も気分が良くないものです。
強引に何かを手に入れても虚しく感じます。
権力で偉い地位についている人は、その地位が絶対的であればあるほど悲しみもあるのだと思います。
何でも手に入る、どんな人も賛成してくれる、何を言っても認められる。
それってつまらないと思います。
本音で語り合ってバカなことを言ってはしゃぎたくなるんじゃないかと思います。
大人なのに何をやっても周りが笑顔で、拍手に囲まれている人物の映像が浮かびます。
自分がやることには正統に見える理由をつけたり、気に入らない人は力で消えてもらったり、自分の力を全世界にアピールしたくなるのはそういう虚しさがあるからのように思います。
規模は小さいけれど、小さい時の私もそうでした。
祖父母に絶対的に甘やかされて育った私は、なんでも肯定されました。
成長するにつれて、それがイライラするようになりました。
何をやっても認められるなんて、バカにされているみたいという気持ちになりました。
私自身を見てもらえていないような気持ちです。
私の意見は◯でも認められるし、仮に逆に×と言ったとしても認められるような感覚でした。
その立場は虚しかったです。
歌詞に戻って
なくしたものはいらないもの
加えて、
手に入れられないものはいらないもの
持っているものは大切なもの
と私は思います。
欲しいものを手に入れようと努力することはもちろん大切な態度だと思います。
例えば、期限が切れたものを交渉もせずに決まりだからとあきらめるのは怠慢な態度だと思います。
(会社員として働いていた時にそう言ってあきらめたら、「事務的な仕事があなたの仕事ではない。そこから交渉して手に入れるのがあなたの仕事だ。」と大先輩に言われてハッとしたことがあります)
やるだけやっても手に入らないなら、それは自分にはいらないものなんだと受け取るとそこには新しい道が開けそうだと思っています。
大人の自分と子供の自分
大人の自分というのは大脳新皮質での考え。
子供の自分というのは大脳旧皮質での感情。
今回、大人の自分が「だんなと一緒の時間じゃなくてひとりの時間が欲しいんだよ」と認識したところ、子供の自分がすんなり付いてきました。
今までなら、感情が暴走してイライラが収まらなかったり、次のイライラにつながったりしていました。
大人の自分は論理的。でも、パワーがあるのは子供の自分の方。
大人の自分と子供の自分の関係が深まってきたように思います。
子供の自分が大人の自分を信頼し始めたようです。
まさにその5日の日に息子と一緒に見ていたアニメの内容とリンクしています。
そのアニメは『湾岸ミッドナイト』。
その第2話から第3話にかけてのあたりです。
主人公のアキオが古いスポーツカーを手に入れるものの、高速でぶっ飛ばしていると車が言うことを聞きませんでした。
事故を起こしながらも乗っていくうちに、その車に少しずつ受け入れられていっているように感じるとアキオが言っていました。
物理的な観点からも、ありえない馬力を発揮するそのスポーツカー。
事故を起こしてばかりの因縁の深さと、ありえない馬力から悪魔のZ(車種はフェアレディZ)と呼ばれています。
ストーリーが展開するにつれて悪魔のZとアキオがどのような関係を築いていくのか、気になります!
▼スクラップ工場で廃車になりかけていた悪魔のZ
▼画像はこちらのブログから引用させていただきました。