キャンドルナイトを実行して②-感想
ひとつ前の記事▼でキャンドルナイトの記録を書きました。
こちらではその感想をまとめました。
キャンドルナイトを実行できた達成感
キャンドルナイトの企画を知ったのは、大学生の時でした。
環境問題を扱う学科がいくつかある学校だったので、エコにつながる取り組みやイベント情報に触れる機会が多かったです。
大学のトイレにキャンドルナイトを勧めるチラシが貼ってあって初めて知りました。
当時私は大学の寮に住んでいて、寝る部屋以外は全て共有だったのでキャンドルナイトの実行は不可能でした。
就職するとめまぐるしいままに毎日が過ぎて、キャンドルナイトしたいと思う余裕も、夏至を意識する余裕すらありませんでした。
そして意識から消えたまま過ごしてきました。
それが今年はなぜか思い出して、やってみることにしました。
こどもがいるから…
こどもが生まれると、生活上の制約がなにかと出てきます。
今回、こどもと一緒だと難しいと思うことのひとつであるキャンドルナイトを無事に実行できました。
ろうそくの明かりだけで過ごす企画をやってみようと思うと息子に伝えた時、息子は意欲を示しました。
当日も、暗くてもできる遊びをあれこれ一緒に考えられて楽しかったです。
やりたいことの中には、こどもと一緒だと難しいことも多いものです。
やり方を工夫すればできることもあるだろうし、成長を待ったり、良い機会を待つしかないこともあるでしょう。
あきらめてばかりだと自分のやりたいことが簡単にわからなくなってしまうので、やりたいと思う気持ちは大切にしたいと思います。
正直なところ、やりたいけれどこどもと一緒だとやりたくないことも存在します。
こどもに振り回されたくなかったり、自分のことに集中したいことなんかはそうです。
そういうのは自分の時間に丁寧にやりたいです。
アクティブな人だと、逆にこどもを振り回しながら実行できちゃったりするんですけどね。
少なくともそのふたつの区別はしっかりつけておきたいと思います。
▼気付いたらやりたいことがわからなくなっていたこと
妥協の裏側
キャンドルナイト実施中は、妥協して電気を使いたくなることが何度かありました。
焼き魚の骨をしっかり取りたいから、とか、吐いたものはしっかり処理したいから、とか、ちゃんとお弁当を作りたいからとか思った時でした。
あと、魚がちゃんと焼けてるかろうそくの明かりではわかりづらくて確かめたくなったということもありました。
全部、しっかりとかちゃんとしなきゃと思う時なんですよね。
じゅうぶんな明かりを使えるようになって、適当に済ます気持ちを許しづらくなっているのかもしれません。個人個人の中で。
今回、だんなに作ったお弁当は適当でした。
適当に作ってる自分が楽しかった感覚を覚えています。
適当に作ることを暗さのせいにもできるからかなと思いました。
生活に便利な進歩や発展は、裏では言いわけを奪ってきているのかもしれません。
便利さや進歩や発展がかえって長時間労働につながっているようにも思えます。
じゅうぶんな明かりが無ければ夜に仕事をすることはできません。
終電が早ければ余計な仕事を切り上げられる人も増えるんだと思います。
だから私は、できてほしくない発明があります。
風邪をすぐに治せる薬や、疲れをすぐに取れる薬などです。
そんなものができたらいくらでも働ける理由・働かせても良い理由ができてしまうだろうから。
のんびりしたり適当に済ませたりする精神を大切にしたいとキャンドルナイトを一晩してみて感じました。
次にまた実行するかと言われると、わかりません。
明るい生活に慣れていると、暗くて思い通りにできないことにもどかしさを感じました。
やってみれば充実感や非日常感が味わえて、やって良かったと思うことは間違いないのですが…
実行に至るまでのモチベーションを上げられるかどうかにかかっていると思います。
そのへんはプチ断食に似ていると思いました。
やれば体もスッキリするのに、やり始める気力がなかなか満たせないというか(^-^;
▼プチ断食
かわいいキャンドル
今回は手持ちの特に愛想の無いろうそくを使いましたが、雑貨屋さんに行ったらろうそくに見えないようなかわいいものがたくさんありました。
こういうアイテムを使うと気持ちも盛り上がるかもしれませんね!
雑貨屋さんの店内は撮影禁止で、こういうキャンドルがずらっと並んでいた魅力的な映像を紹介できないのが残念です。